村社 荒神神社(豊岡市日高町国分寺)

投稿者: kojiyama 投稿日:

概 要

社号 荒神神社
式内 売布神社古社地
読み:こうじんじんじゃ
所在地 兵庫県豊岡市日高町国分寺691
旧地名 但馬国気多郡
御祭神
主祭神 火結神(ほむすびのかみ)
配祀神 奥津比古命(おきつひこのみこと) 奥津比売命(おきつひめのみこと)
「日高村郷土誌」 素戔嗚尊(すさのおのみこと) 左 誉田別命(ほむたわけのみこと) 右 宇迦魂命(うかのみあたま)(『日本書紀』では倉稲魂命)

例祭日 10月15日

社格等

『延喜式神名帳』(式内社)
伊勢国253座 大18座(就中十四座。預月次新甞等祭。) 小235座
度會郡[ワタラヒ]:58座 大14座 小44座
式内社
近代社格制度 旧村社
社格制度廃止後

創建
本殿様式

境内摂末社(祭神)

一口メモ

国分寺区公民館右手の坂道をまっすぐ登った所に広い境内がある。
昨年2012年に撮影したが、ページファイルが欠落しており、再登録のため撮り直した。

歴史・由緒等

由 緒

創立年月不詳

鎌倉時代法勝寺末寺領となりて佛神田2町3反を修理田となし江戸時代には、国分寺の鎮守荒神、八幡、稲荷の3社と称せし荒神社とは当社の事なり。

文政11年(1828)本殿を再建し、明治維新の際、国分寺境内より今の地に遷座せり。

明治6年(1873)10月村社に列し、大正3年(1914)本殿を再建せり。

ー『兵庫県神社庁』よりー

以下は式内 売布神社の項を転載

創立年月不詳

往古は石立村の西南字祢布ヶ森*1に鎮座ありしを中古字天神という同村東の山腹に遷す*2。

然るに同所は大雨の為、境内大いに損ぜしかば文久2年(1862)現境内に移転せり。

王朝時代延喜式の制小社に列し万延元年本殿を再建し、明治6年(1873)10月村社に列せらる。大正10年(1921)本殿の屋根替えあり。

-「兵庫県神社庁」-

[註]1 2
『式内社調査報告』古社地
*1
豊岡市日高町祢布(禰布ヶ森遺跡)
*2
豊岡市日高町国分寺(天神山に小祠) 荒神神社境内

明治維新の際に国分寺境内から遷された村社・荒神神社がある。

当社は一名 三柱神社と呼ぶ。国保村旧国分寺村35戸の鎮守神、
当社の建社年代は今之を詳にし得ざるも、古より由緒ある神社として歴世は領主より尊崇されたるは疑うべからざる証跡あり。
(中略)
一 荒神小社 四尺✕二三尺 一 八幡小社 三尺✕二二尺五寸 一 稲荷小社 二尺✕ニ一尺五寸
右は凡そ三百年余以前に勧請し候、(中略)

「日高村郷土誌」

『国司文書 但馬故事記』
人皇十二代景行天皇三十二年夏六月、
伊香色男命の子、物部大売布命は、日本武尊(やまとたける)に従い、東夷を征伐せしことを賞し、その功により摂津の川奈辺(旧川辺郡)・多遅麻(但馬)の気多・黄沼前(城崎)の三県を賜う。
大売布命は多遅麻に下り、気多の射楯宮に在り。多遅麻物部の祖なり。

物部連大売布命、長く天皇に仕え、人皇十三代成務天皇の六十年多遅麻に還る。

人皇十五代神功皇后立朝の二年五月二十一日、
気多の大県主物部連大売布命薨ず。寿百五十歳。射楯丘(1)にもがりす。

売布神社と国分寺の荒神神社の位置関係から、つながりがあると連想するのが大売布命が宝塚市の売布神社と清荒神である。したがって、売布神社とされていたものを、今の社地に移転した後、荒神神社と改められたとすれば納得できる社号。

式内 売布神社 兵庫県宝塚市売布山手町1-1
旧川辺郡
主祭神 下照姫神(高比売神)、配祀 天稚彦神
元々は大売布命を祀っていたとされる。
式内社で、旧社格は郷社。旧川辺郡米谷村(まいたにむら)の産土神。

『但馬の中世史』 宿南保氏P273に、売布神社の古社地として有力な記述がある。

国分寺城

但馬国分寺遺跡地の傍らの道を経て、その裏山の小さな谷に入ると
売布神社の境内に達する。(中略)
売布神社境内から、その神社がある山の国分寺古城跡に登り、その尾根の北側から下る道をたどって、次は対する国分寺城跡の山に登る。めぐって下ると売布神社境内である。この道は西国ハ十八ヶ所の石仏巡りの大師道で、現在では「天平の径(みち)」として日高町が整備に力を入れているから、山道ながら散策しやすい。

往古は石立村の西南字祢布ヶ森に鎮座ありしを中古字天神という同村東の山腹に遷す。
然るに同所は大雨の為、境内大いに損ぜしかば文久2年(1862)現境内に移転せり。
宿南保氏は、いまの荒神神社を売布神社としている。国分寺村から石立村へ遷し村社としたか、あるいは両村の氏神となったかは不明であるが、射楯(いだて)は石立の古語である。

境内・社叢

  
狛犬

  
本殿覆屋


本殿左境内社 売布神社だと思われる。
*2豊岡市日高町国分寺(天神山に小祠) 荒神神社境内


社殿下石灯籠

以前は参道の両脇に並んでいたものと思われる。神社の東、国分寺城跡(天神山)中腹に上水道貯水場がある。参道になっている道が建設工事用に拡張されて移動したのではないだろうか。

  

西国ハ十八ヶ所の石仏巡りの大師道で、現在は「天平の径(みち)」

地名・地誌

『校補 但馬考』

高田郷 村6
夏栗・久斗(クト)・禰(袮)布(ネフ)・石立・国分寺・水上

国分寺

続日本紀に、聖武天皇天平十三年正月丁酉(ひの ととり)、(中略)
諸国の国分寺に施し入れて、丈六の仏像を造るための料にあつ、同年二月乙巳(きのと み)、詔曰く、「天下諸国をして、各々敬て七重塔一区を造り、 に金光明最勝王経、妙法蓮華経、各十部、その僧尼毎月八日、必ず最勝王経を転読すべし。月半に到るごとに、羯磨(カツマ)を誦戎(ジュカイ)*1し、毎月六斎日、公私漁猟し殺生することを得ざれ、国司等よろしく恒に検校を加えるべし。

*1
となえる。よむ。声を出して読む。そらんじる。

古文について考えれば、聖武天皇の天平十三年を開基とすべし。国ごとに立てられる。故、通して国分寺と云えど、その実は、僧寺の名は金光明寺と云う。尼寺を法華寺と云う。ただ、続日本紀に、すぐに国分寺を立つといわざるゆへ、卒爾に見分け難し。(中略)

光仁天皇の宝亀八年七月癸亥(みずのと い)、但馬国国分寺の塔に震(シン=地震)す。震は雷の撃つるなり。

太田文曰く、法勝寺末寺国分寺、(中略)領家 白川中将
建武五年の院宣、今民間に伝われり。(中略)その後、山名播磨守豊詮(アキ)相続す。宗全入道の孫教豊(ノリトヨ)の次男なり。しかるに法勝寺領、国中に多し。山名家の知行せしは、これのみにあらじ。
天正年中、兵火にかかりて再建なし。今この地をすぐに国分寺村と称す。水田の中に遺址あり。礎なお残れり。その傍らに小庵をむすんで、ただ寺号を伝えり。

地 図

交通アクセス・周辺情報

JR山陰本線「江原駅」より北北西へ1800m
 
但馬国分寺礎石
西国ハ十八ヶ所の石仏巡りの大師道で、現在は「天平の径(みち)」

参 考


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